愛しのセンターほくろさん

「センターほくろさん」とは⏩岡本圭人の胸部中心に存在するホクロのことである。ご挨拶できることは稀。レアキャラなのだ。

ジャニヲタになったきっかけ

http://blog.hatena.ne.jp/-/odai/6653586347156873287:title=お題「ジャニヲタになったきっかけ」


このblogを始めたときに書いたけど参加したかったからそれをもうちょっと詳しく書くことにする!


圭人くんを好きになる入り口は、絶対エース涼介さん。'06探偵学園Q SPで見事に落ちました。

昔から漫画が大好きで、NARUTOだったらサスケ、満月をさがしてだったらいづみくん…というようにクール系が好きな私は、すぐにリュウ(山田涼介)を好きになった。

そして翌年には連ドラ化。スペシャルだけで終わっていたならきっと忘れていた恋心が、確かなものになりました。

そのころ調度4つ下の妹が毎日のようにYouTubeで旧7とJUMPを見ていて、私も一緒になって見た。
当時私はロックバンドが好きで、CDを見に行くことも多くて、そのたびに店頭に分かりやすく置かれたデビューCDを見ていた。
あ、リュウだ。あ、薮くんだ。光くんだ。なんて思ってた。(Ya!Ya!Yah!は知ってた。見てた。)(翔央がすきだった。)


そこで、圭人くんを見つけました。

初見の感想。
わ~ブスだな~


その後、うたばんで圭人くんと再会。
(あれ、ドリカムかな?YourSeedかな?)

龍ちゃんを中居くんがいじるくだりで、中居くん止める圭人くんを見て「空気読めないやつだな~」と思い嫌いになりました。


さらにその後、HEY!HEY!HEY!で再会。シャドボのときでした。大勢で写真を撮るならどこに立つ?っていう心理テストをやってました。

普通は真ん中、端だったけれど、そのときの圭人くんは一番前に雑誌のポーズをとるみたいに座ったのです。
この圭人くんを見て、なぜか好きになりました。

これは自分でもよくわからない。
でも、「好き!」って思ったんだ。

約1年間、一般人の領域で山田に恋をし続けた私だったが、ここで転機?到来。

当時のクラスメイトに八乙女担がいた。それは知ってた。その時点でたぶん担降り3回目くらいのまさにオタク。彼女が私の山田涼介好きを知り、コンサートに誘ってくれたのである。

忘れもしない、トイレで、しかも私は入る前、彼女は出たあと。「(私)ちゃんコンサートあるんだけどいくー?!」「行くー!」「申し込むねー!!」おわり。「山田くんに会える!」とにやにやしながら用を足した。

初めてのコンサートはいわゆる、冬コン。2009年1月4日。横アリ。スタ東1列。

早速グッズに5時間ならび、ジャニーズの洗礼を受けた。でも「ジャニーズだから仕方がない」と受け入れた。日本国は『ジャニーズは別格』ということを幼少期から刷り込んでいると思う。

この時点で山田くんと圭人くんの団扇を買っていたんだから、HEY!HEY!HEY!の威力おそろしや。

生まれて初めてのコンサートはとにかくわくわくできらきらで、ジャニーズのすごさを見せ付けられた気がした。でもたぶん、よくわからなかった。それでも楽しかった。

そしてそのときは、きた。

7コーナー。Dブロ前でエレキギターを弾く圭人くん。


完全に恋に落ちました。


『私、ジャニヲタになる!!!!』
横アリを出た瞬間にそう宣言し、めでたくジャニオタになったのでした。


…と前回はここで終わったけど(一部編集)、もう少し詳しく書くと、私は昔からジャニヲタに「なりたかった」と思う。

私の人生(世代)の『ジャニーズブーム』は小学校高学年だった。みんな「誰が好き」と言えた。(私は加藤成亮と言っていた)

しかし、私の家は父が厳しく、見るテレビもかなりの制限があった。パソコンだってでっかい箱形だったし、そもそも家になかった。友達が持っているアイドルの顔が入った文房具もつまりは静止画。元々の情報量が少なかったのである。つまり、あまり分からなかった。

そんなとき、みんながアイドル誌を読んでいるのを知る。私がしもべのように扱っていた幼馴染みでさえも、POTATOを読んでいた。私は母に頼んで買ってもらい、わくわくしながら読んだ。(始めてみたのが薮くんのページだった)しかしこんなもののどこが楽しいのか?と思い、おとなしくいままで読んでいたりぼんに戻った。母にも「あんたにはまだ早いのよ!」と言われて、かなり悔しかったのを覚えている。

そして第二波、中学生。ごくせん2である。私の父はごくせんが大好きだった。TSUTAYAで借りてくるほど大好きだった。だからテレビ制限の厳しい我が家でもどうどうと見ることができ、「カメ派?仁派?」いうクラスメイトの会話に入れた。

この時はもうパソコン、そしてYouTubeを使えたため、情報は得放題だった。

つまり、私は「ジャニーズが分からないこと」に対する劣等感があった。見下していた幼馴染みに先を越され、4つ下の妹にも先を越された。みんなが知っていることを知らない。みんなが好きなものが好きじゃない。仲間はずれにされたようなそんな気さえしていた。

「憧れ」があったぶん、ジャニーズに対して積極的だったと思う。

きっかけについてはこれで終わりだが、長話ついでにもう少し語る。「なぜ続けられたか」。
私は自分でも引くほど飽きっぽい。習い事や習慣、本、趣味、バイト、好きなひとさえもすぐに飽きる。やめる。そんな私もジャニオタ歴8年目。これより続いているのは生きていることくらいである。

最大の原因は、父が死んだことと、失恋だと事故解析している。なんだか急に重いけど別に重くないんだ!

前述した通り、我が家の厳しいテレビ制限やその他もろもろの制限をかけていた父は、私が16歳のとき、2009年2月に他界した。私がコンサートに行った1か月後。つまり、私の生活に制限をかける人物がいなくなったのである。

好きなときに好きなTVを見る、好きなときに好きな時間まで遊べる、等々、自由になった私含めた3姉妹は各々好きなようにグレたので、母はさぞかし大変だったことでしょう。

つまり、金と意欲さえあればコンサートに好きなだけ行ける環境ができたのである。

「好き」という気持ちだけではジャニヲタはできない。環境、時間、金、気持ちが揃わなければそれはただの「ファン」だと思うのだ。


次に、失恋。恋多き(片想いだけだけど)学生時代を送ってきた私であったが、2010年高3の12月、すごーーーく好きだった子にふられた。実は飽きる前に恋が終わるのが初めてだったのでなかなかパンチがあったこの出来事は、私を『リア恋』の沼へずるずると引きずりこんでいったのである。(これが長かった。たぶん2年くらい。)

もっともっと続けている理由を言うと、女子とは、人間とは、みたいな話になってくると思うので、終了。つまりは圭人くんがこの世に存在しているから。

私は専門時代に社会学で『なぜ女子はジャニーズに依存するのか』という原稿用紙16枚のレポートを書き、先生にべた褒めされたほど、ジャニーズとヲタクについて考えるのが好きだ。

死ぬまで、私はジャニヲタを名乗りたい。
普通にいけば50年はある余生を全て捧げてもいいと思えるほど、ここは楽しくてきらきらして魅力的で全く飽きない世界なのだ。